教育について思うことをつらつらと

この記事は、大阪工業大学Advent Calendar 2021 の23日目の記事です。

 

 

どうも。あるみめんべい(遅刻)です。

 

言い訳させていただくとつい先ほど自宅に到着し、今慌ててこれを書いているわけです。そして投稿日時を偽装しています。わぁ。

 

さて、今回ですね、書こうと思っているのは「人格形成」と「教育」についてです。テーマ広っ。

 

1.先天的な環境における人格形成

 

 病気っぽく「先天」「後天」とか言ってますが、要は「先天的な環境」というのは生まれた場所、生みの親、そしてどんなことがあっても抜け出すことができない「家族」という枠組みをここでは指すことになります。

 

 1人の子供がいたとして、親は大層口が悪い。その口の悪さを15年ほど聞いて育つとする。中3k高1?だと思うのですが、その時に果たして子供は他人に対し息をするように毒を吐いていくだろうと思いますか?

 

この理論を謳っていた思想家の方の名前を失念してしまいました。「教育原論」の授業を受講するとこういった思想家についての話を聴くことができます。後述するものも「工科大学」以外はすべて大阪工業大学の教職課程で学ぶことができます。

 

僕の親も口が悪く、すぐに手も足も出てしまうため、小学生時代は男子のすねを蹴るという馬鹿らしいことをしていました。女子にはビンタされていたので、自分の性別がわからなくなります。多分男ですね。女子に手を上げたことは今までないと思います。いつもやられる側です。

 

…それはともかく。道をあるいていると見かける、しゃがみ込んで酒をあおる大学生を見て、「育ちが悪い」と感じたり、丁寧な話し言葉、清潔感のある身だしなみ、この子はきっと「家もしっかりしている」「裕福な」「優秀な」育ちなんだろうと思うことはいままでにありませんでしたか? 僕は無意識下に「先天的な環境によって人の人格は形成される」と考えるからだと思っています。はっきりと「そんなことはない」と考えていても、どうしても相手の実家のこと、今までしつけされてきたのかな?どういう育ち方したらこうなるの、と思うことが少なからずあると思うのです。

 

実際に、先天的環境を要因とする「人の機嫌を伺う」「自分の気持ちを言わない」といった「相手に何かを伝えるのが怖い」「嫌われるのが怖い」から、という『自衛』が働くことはあります。少なからずその子自身の特性として上記のような性格が形成される…この場合は持って生まれた性格ということになるわけですが、この『自衛』が酷くなった先が『鬱』につながっていきます。周囲に合わせるのがつらくなると自衛のその先を行ってしまうのです。

 

この場合、人格形成としては「人の機嫌を伺う」ということで「完成」してしまっていると考えています。人は一度ついた癖はなかなか抜けませんが抜けないことはないですよね。たばこだってやろうと思えば禁煙できるしモンストだって一度辞めてみたら意外ともうしなくなります。

 

冒頭の口の悪い子の話を思い出してみてください。果たしてこの子が親になったとき、この「口の悪さ」を改善し、自身の子供にはふさわしい言葉遣いができるのか?と言われると、難しいものがあります。その子にとっては「口が悪い」ことが普通で、それが当人の「人格」となるわけなので…。

 

ここで重要なのは「人格形成」の途中に少しでも「劇的な何か」があれば、どんな過酷な環境にいたとしてもそれらを打開するような性格が出来上がるということです。口の悪い子は15年間口が悪いままでした。これは「15年間これを正す人はいなければ変わろうと当人が決意できるほどの事柄がなかった」ということです。この話はどちらかと言うと、次の話になります。

 

2.後天的な環境における人格形成

 

 先程の「劇的な何か」とありましたが、これが「後天的」にあたります。僕自身、現在某プロジェクトにいますが、僕が今こうしてロボットいじれる環境に居るのは今回の話に出てくる「劇的なこと」があったから、またはその繰り返しの上で今があります。

 

 教育界上で「どうしようもないこと」とされるのは家庭環境です。家庭の事情に教師は介入できませんから。先程から出ている「人格形成」というのは、年齢的にはとくに規定はなく、「一人の人間として自律できたその時」に「完成した」と仮定したうえでの話になります。先程の口の悪い子も、自分が悪口を言う(意外と本人は悪口だと考えていない)ことで自分を確立しているので、そういった意味では「自律している」と言えます。

 

 よくある有名人の過去を語る回においても、必ず「キーパーソン」となる人が居て、その人のおかげで状況が好転、今に至る、という話になりますよね。逆も然り、良い子だったのに周囲にそそのかされた結果、失敗を犯し、それを機に性格が変わる、それらを引きずって自身の人生をダメにする、ということもあります。

 

 その「後天的な環境」というのは、多くの要因は「学校」という名前の括りの中に居たとき、影響を受けることになると考えています。友人との衝突、先生に対する苦手意識、部活動の経験…。すべてがすべていい方向に向くとは限りません。失敗すらもいずれ「成功」や「笑い話」に結びつくなら良いのですが、現実のほとんどは「後悔」の念が強く残るために、「後悔」が「憎い」「悲しい」「怒り」といった感情に変わった結果、それがトリガーとなって人格形成に「本当だったら起こるはずのない変化」を与えてしまうわけです。本来であれば順風満帆、しかし自分の想定していないことが起こると取り乱し失敗する。「完璧主義」だとこの思考に陥りやすいと思います。

 

 「社会に出たとき」に「仕事がつらくて鬱になる」というのは「人格形成が起きたから」ではなく、当事者自身が「そういう人格を持っているから」ということです。大人になったときの変化は基本的にすでに完成された「人格」が、人生で起こる大きな出来事等に「適応できる」か「できないか」という問題ただそれだけです。仕事がつらいと思うのであればそれは自身に合ったことではないというだけで、当人が悪いという要素は一切たりともないのです。就活に失敗した、進学失敗した。全部そうです。ただ、「合わなかっただけ」。しかし人間はすぐに飲み込めるわけではありません。日本人はたいてい「飲み込めません」。全部「自分が悪い」と言うのです。

 

 「自分が悪い」と言い続けるその姿勢は、「幼少期~思春期までの人格形成」による結果です。きっと成績や身なりにかなり圧のかかった育ち方なのかもしれないですね。故に、完璧主義。今の上手くいかない状況も自分のせい…。他のことは聡明なのに、自分自身を守る術も選択肢も逃げ方も思いつかない、考えられない。かつてパワハラや残業続きで精神を病み、自殺に追い込まれた会社員の方がニュースになりました。その方は大学の同級生や母親曰く「こんなことするような子ではなかった」といっていましたが、そう周囲が思うことで、被害者の心には「周囲の期待通りにできる人にならなくては」と思っていたのかもしれないと思います。

 

続く連勤を重ね重ね、とうとう「完璧主義」に近い考え方を持っていた被害者の方は命を絶ってしまいます。きっと、会社の問題だけならば、聡明な方であると記事にも証言にもあったので、周囲の人間に相談するだろうと思うのです。それをしなかったのは、自身が周囲に迷惑をかけたくない、「ああ、この子はもしかして仕事ができない、こなせないのでは」と思われるのが「嫌だった」のかもしれないですね…。

 

周囲の「思い込み」による「接し方」によって、人格も大きく変化すると考えています。

 

「集団」というもの

 

 小中、厳しいとこであれば高校まで、「集団で何かをやる」ということが非常に頻繁にあります。文化祭準備レベルのたのしいやつでしたらいくらでもやります。実際はそんなことはなく、それ以外にも「クラス」「部活」「授業の班分け」「実験の班分け」と、様々な分け方をされて生成された「集団」で、何か一つの物事に取り組むという活動が多くなります。先述の「人格形成」はこうした「人とのやりとり」を繰り返し、少しずつ変化し創られていきます。

 

 しかし、必ずしも人間であれば全員が誰とでも仲良くできるわけでもなく、1人を好む子も現れます。しかし教員はこれらの生徒もすべて一律でみなければいけません。

 

 僕は集団討議は苦手です。人の話をよく遮ってしまうので…。ADHDの疑いと、鬱症状…を今年診断されて、なぜ自身が集団や人とかかわるのが苦手なのかが理解できました。「クラス」にはADHDどころか、LD、自閉症五体不満足、等々様々な特徴を持つ生徒が居ます。その子らも全員一律です。色眼鏡で見てはいけないのです。しかし先生も人間ですから、どこか異色の目でみてしまうこともあります。(実際高校時代にやられてるので)

 

 集団には「リーダー」がつきものです。大多数は「リーダー」についていきます。しかし必ず数人は「気に食わない」とかなんとかを理由にしてついていきません。生徒側は放置するかもですが、教師がそれをよしとするわけにはいかないので、うまく集団に誘導しなければいけません。

 

 集団になじめない子は自然と浮き、その子は自身が異色の存在であると感じるか、あるいは意に返さないか、この過程でも人格は形成されています。でも、学校はしつこいもので、「集団行動!」と言ってくるわけです。

 

 しかし、就職試験。面接時に

 

「あなたの個性を見せてください」

 

…と言われるわけですね。みんなパニックですよね。

 

 高校時代クラス全員丸坊主でしたか?制服をきちんと着用していましたか?スカートは一律の長さ、学ランは襟までとめる、通学かばんは学校指定、携帯の持ち込みは禁止でしたか?化粧は禁止でしたか?周りと浮くようなことはしないように気を付けたりしていましたか?

 

 上記のことにいくつか当てはまったり、自分自身がそうしていたのであれば、立派な集団教育を受けていた、ということになります。「ルールだから」守るのですが、効率面を考えると、いくつか「どうしてこの決まりなの?」と疑問が浮かぶ「集団のルール」があると思います。

 

 その疑問は正しいもので、他所へ行けば「へーなにそれ、変わってるね」と言われることがほとんどです。就職の時もそうで、型にはまった話し方ばかりして、周囲の人間と大差ない人物になってしまうと、会社からは「採ってもメリットもデメリットもない」と思われてしまっても仕方がありません。

 

 「個性」、すなわち「人格」ですが、現在の学校の集団教育はそれらをひねりつぶすものばかりです。しかし、オンライン授業が浸透したことで、「自学自習」「周囲に引っ張られない」といった「個人プレイ」で、かなり自由な状況になったと思います。

 

おわりに

 

 教職課程は土曜に授業があったり、平日の5,6限にあるので大変しんどいです。ですが、免許を取るにしてもなんにせよ、ためになる話ばかりです。

 

ちなみに僕は高校の「工業」免許を取ろうとしてます。大工大では「特例制度」があり、教職課程の必修科目と学科の卒業単位をそろえることで教員免許を取得できます。また、必修以外にも指定された教職科目を履修し単位をとると、教育実習に行くことができます。

 

 僕の所属する梅田キャンパスは「工業」しか免許が取れませんが、他キャンパスまで授業を受けに行く時間があれば「情報」なんかも取れるみたいです。

 

 教職課程に興味のある人は、免許貰うのだけでも、狙ってみるといいかもしれません。教育と言うのは別に学校のみではなく、会社の中においても必ずあるものなので、社内教育の時に、ある程度の教職課程の知識は大いに役立つはずです。